コラム|「逸翁自叙伝」

阪急阪神東宝グループの創業者小林一三翁の自伝「逸翁自叙伝」が昨年、講談社学術文庫に収録された。その背表紙の紹介文にいわく、『沿線の土地買収、郊外宅地の開発と分譲、少女歌劇…。誰も考えつかなかった生活様式を生み出した彼も、若き日は仕事はしても評価はされず、放蕩に明け暮れる問題銀行員と目されていた』とある。
冒頭、明治21年(1888年)慶応義塾大に入学した頃を述べた「初めて海を見た時代」という文章には、麻布十番の芝居町に通い詰めたことが記されている。『私は毎月毎月この芝居を見ることによって劇通になり、そして木挽町に歌舞伎座が新設されてから、初めて本筋の芝居を見るに至ったのである』。仲間に劇評が独創的で新味があるとおだてられた若き日の一三翁、歌舞伎座二階の桟敷席に陣取っている数十人の劇評家の中に乗り込んだが、いつしか芝居を見るのをやめて彼らの冗談駄弁を書き留めたことがあった。『楽屋落ちの実態をさらけ出したことは、我ながら痛快だと信じておった』。この時の文章がもし残っていたらその時代の劇評家の様子が分かる素晴らしい資料になったことだろう。