コラム|織田有楽斎と有楽町

戦後、有数の興行街となった東京・有楽町。地名の由来といわれている織田有楽斎は、その名を織田長益(一五四七-一六二二)といい、戦国時代の覇者織田信長と13歳離れた実弟。安土桃山時代から江戸時代の初期の大名で、茶人として知られる。
本能寺の変では、信長の長男信忠と二条城にいたが脱出し、小牧・長久手の戦いでは徳川方を助けたが、羽柴秀吉との講和の際には折衝役を務めた。関白・太閤時代の豊臣政権では御伽衆となり、摂津国の二千石を領し、剃髪して有楽を名乗る。大坂城にあって姪にあたる淀殿の後見役となる。秀吉没後に起きた関ヶ原の戦いでは、東軍についた。戦功により、徳川家康から大和国内で三万二千石、長男長孝は一万石を与えられる。関ヶ原後も大坂城で、淀殿・秀頼親子を補佐したが、大坂冬の陣のあと、家康の許可を得て京・建仁寺の正伝院にて隠棲。茶の湯に専念、趣味に生きた。一六二二年死去。茶室如庵は国宝に指定されている。こうみると、有楽斎自身は江戸とは関係なしとみられるが、関ヶ原後に数寄屋橋御門周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれ、明治以降に「有楽町」と名付けられたとの説がある。しかし、有楽斎が住んだという事実はないことから俗説として伝わったというのが本当のことだろう。

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