コラム|花見のケンカ

特撮の神様とうたわれた円谷英二が映画業界に入ったきっかけは、花見の喧嘩だった。
時は1919年(大正8年)春。場所は、徳川吉宗ゆかりの桜の名所、北区王子の飛鳥山。当時十八才の円谷少年、入学した飛行学校がつぶれ、玩具会社でおもちゃのアイデアを企画して生活していた。本人の回想によると、『玩具会社の工員を連れ、飛鳥山の花見に出かけたとき、私たちの隣りに来ていた客とケンカになった。仲裁に入って知り合いになったのが天然色活動写真の技術長だった。十八才の少年と、三十何才かの技術長は、急速に意気投合、熱心なすすめで映画会社に入った』(円谷一編「円谷英二・日本映画界に残した遺産」小学館刊)。
若き円谷英二を認めて、映画業界入りを勧めた技術長とは天活(天然色活動写真)の枝正義郎。天活は、三葉興業の創業者・小林喜三郎氏の創った会社の一つで、日暮里、続いて巣鴨に撮影所を建設、名前の通り日本で初めてカラー映画を試作、さらに日本初のアニメ映画を1917年製作・公開した会社だ。しかし、円谷が兵役についている間に関東大震災が襲い、日本映画の中心地は京都に移り、円谷ら映画人も京都に移っていく。(髙)